三次元の解像度1

たぶん、いつかは離れるふたり。
その予感と共に出会い、10年を共に過ごした——

カルナさん39歳、アルジュナくん28歳の両方絵描きな現パロ。兄弟、記憶なし、若干の宿痾風味。
全編リバ前提。

第1章、鬱々イラストレーターアルジュナくん(28歳)、画家のカルナさん(39歳)の住む街へゆく。
初対面の回。この後カルナハウス(山奥)で同居がスタートします。

1はアルジュナくん視点ですが、次回#2はカルナさん視点です。

国はヨーロッパ、ドイツ辺りを想定していますが、架空の土地というか色々ふわふわ設定なので大体あの辺の国のイメージという感じで読んでいただければ幸いです。

※Caution※
・口調・三人称等は現パロなので適宜現代語っぽく変更している箇所があります。
・後からR18シーン有り(#1にはR18シーンはありません)

上巻を2022.3.24春コミで発行しました。
成人向け/文庫/小説/96p/本文43909文字
中巻を8/28 GOOD COMIC CITYにて発行予定です。通販については8/28のイベント後を予定しています。

2022年1月作
(12,897文字)

 今日も最適な線と色とで仮初の平面を彩る。
 細部を見れば、見る箇所によって繊細で精緻、また構図上目を引くポイントでは驚くほど大胆な描写がなされている。
 そうして織りなされたイラストレーションはひとつの世界を構築し、画面のなかで躍動し瑞々しく広がっている。
 アルジュナの描く絵はうつくしい。
 両利きの手は器用に淀みなく、なかば機械のような正確さで手元のツールを駆使し絵を完成へと導く。手法はデジタル、所謂だ。アルジュナの仕事は依頼を受けて絵を描くこと。イラストレーターだった。
 ここで終わりだ、という確信とともに最後の一筆。誰の目にもうつくしいと感じられるだろう、スタイリッシュで洗練された画面が完成され、一度全体を眺めた彼はひとつ息をついてそれを保存した。今日の仕事も滞りなく済んだ。
 完璧な角度でデスクに据え付けたディスプレイの向こう側。カーテンを開け放した窓からの眺望は、アルジュナの持つ資産の豊かさを示す。
 デスクを離れて窓辺に寄り、疲れた目を休ませるように眼下に広がる街を見下ろした。
 夕陽に照らされた街は、ごみごみと建物とひとに埋め尽くされ、人々の繁栄したいという意思の坩堝に感じられる。強い方向性のあるエネルギーは時に暴力的な圧を帯びる。いまのアルジュナにはそれが少々痛い。その痛みに呼応するかのように、澄明なはずの夕陽の朱さが禍々しい。
 眼下の景色が己に迫ってくるように感じて、嘆息して窓辺を離れた。夕陽は部屋のなかにも淡く差し込んでいたが、直に外を眺めるよりははるかにその気配を薄くして、物のすくない部屋の陰影を深くしている。そろそろ室内灯をつけないと暗い。
 最低限の調度を設た部屋はモデルルームのように整って無機質で、アルジュナ自身の気配すら薄い。元はこうではなかった。もうすこし物のある部屋だったが、花瓶も額に入れた写真もなんだか面倒になり片付けてしまったのだ。
 息苦しいような気分のまま、描き上げたばかりの絵に再度目をやり、クライアントに送る前に最後のチェックをする。再度丁寧に見直しても粗はなく、当然ミスもない。アルジュナの描く絵はうつくしい──描き手本人の情緒とは無関係に。
 この分なら、急な仕様変更がない限り、特に修正指示もなく今回も無事納品完了と相なるだろう。
 ほぼ定例文で構築された、ほんの僅かアルジュナ自身の言葉が添えられたメールにデータを添付し、送信。今度は脱力するように深々と息を吐いた。
 数日中はもう急ぎの仕事はない。対面の打ち合わせもなく、テキストとはいえ、しばらく他者とやり取りせずに済む事に安堵した。我知らず、額に手をやり目を瞑る。
 もうずっと、ひとりになりたいと願う日々を過ごしている。
 何年もひとりで暮らして、ひとりの部屋で仕事をしているのだから、じゅうぶん、ひとりきりで過ごしているとはいえた。ただ、そういう客観的な話ではないのだった。
 現に街路の喧騒の届かない、街中にあっては閑静ともいえる高層階に住まおうとも、如何に他者と距離を取ろうとしても物理的な限界がある。そして、己の孤独を希求する心が物理的な要因では満たされないことをアルジュナ自身自覚していた。
 どこかはるか遠い言葉も通じないような異国に行ってしまうか、いっそ誰もが私を忘れてはくれまいか。決していまの人間関係を打ち壊したいわけでも、ましてや死にたい訳でもなかった。ただただ、ひとりになりたい心を抱えていた。
 そんな願望を孕みつつも日々は味気なく滔々と流れ、日毎にこの先も無味乾燥な日々が続く事を確信させるが如く暗鬱としていた。
 こんなにも日々最低な気分なのに、他人の期待に沿えるだけの絵は描けるのだ。心が死んでいるというのに。
 だが自分で客観的に眺めてみても、出来の良い作品なのだ。技術・キャッチさ共に申し分ない。実際、実績と技術から仕事は滞りなく、時に過剰に舞い込んでくる。
 他者に称賛され、一枚一枚と絵が完成して世に出ていっても晴れやかさなどない。こんな事を言えば同業者に刺されかねない贅沢な悩みだという自覚はある。
 だが他人の注文を聞くだけの自分など、果たして自我があると呼べるのか そんな事になんの意味があるだろう。職人気質にはなりきれない、面倒くさい芸術家気質が顔を出す。
 金を稼ぐためだけならば、絵など描かなくても良いのではないかと思いはじめていた。そうだ、描く事などやめてしまおう。
 そんな事を訥々と考えていたので、漫然と眺めていたの、滅多に更新されないアカウントが新たに情報を発していたのは本当に間の良い事だった。
 それは、兼ねてより気になっていた画家の個展の知らせだった。
 それを見た途端、心にあかりが灯ったように、ここしばらくなかったほどの勢いで詳細を調べはじめる。一年ほど前の、以前の個展は都会の名の知れたギャラリーで開催していたが、今回の開催場所は片田舎とも言える地方都市のカフェ。ここのオーナーと懇意なのだろうか だとすると、ここは画家の住む町なのかもしれない。しばらく頭のなかを留守にしていた好奇心が顔を覗かせる。
「行ってみようか」
 そう思うと、随分長いあいだ低下の一途を辿っていた気分がすこし上向いた。
 開催日程は明日が最終日。行き先はアルジュナの住む街からは遠く、日帰りはできない。突発的に組むにはかなり強行な旅程となる事は確実だったが、蓄積した陰鬱な日々を振り切りたい気持ちが勝った。旅程を調べる為にデスクに向かう。先程のメールの時とは段違いに弾んだ音を立ててキーボードは検索欄に文字を打ち込んでいく。
 気になっていた画家の出展情報も把握できていなかったのだ。は仕事上必要でやっているだけで他者の発信はたまにしか見ないが、それにしても迂闊だったと歯噛みする。ぎりぎりでも、間に合って良かった。
 数分で旅程を確認し終え、常に把握しているとはいえ念のため仕事のスケジュールを確認する。
 手を抜く事ができない性分から、タブレット端末さえ携帯していれば数日留守にしても差し障りがない程に仕事は片付いていた。己の完璧な仕事振りに一瞬だけ憂鬱になる。
 先程まで朱かった外は、もう夕闇の気配を纏って暗く沈もうとしている。ディスプレイが煌々とほぼ闇と化した部屋を照らしていた。
 手早く支度をしてすぐ出掛ければ、夜のフライトに間に合う。空港からの移動時間を考えても、あの画家のいる街に午前中には着けるだろう。
 名前と作品を知っているだけで画家とは面識はない。ただのファンだ。以前の個展は本当にたまたま見かけて立ち寄っただけで、画家は不在だった。今回は在廊しているようだから直に会えるかもしれない。
 そうしてアルジュナは久々に上向いた心で、ひとりきりの部屋を発ったのだった。

 それは豊かな絵だった。
 水に、建物にあたる陽光の表現がうつくしい。
 窓ガラスやグラスに反射した陽光は鋭く鮮やか。夏の情景だろうか、建物の壁を白く焼く熱は目に眩しい。木立の隙間にかかった陽射しの表現など、見ている側までじんわりあたたかくなるようだった。
 こんなにも陽光を表情豊かに描く者がいるとは。なんという事はない街角の、無人のカフェテリアを切り取った風景がこんなにも鮮明でやわらかい。
 ペインティングナイフだろうか。大胆に面で取りつつ抽象的、そしてところどころ精緻な細密描写で構成された風景や静物たち。随所に息を呑むほどビビッドな実在しない色が置かれている。
 しずかに穏やかに佇むそれらは確かに情熱を込めて描かれていた。アルジュナにはそれが伝わったし、なによりも気に入った。
 そう、気に入ったのだ。同時にこんな絵が自分にも描けたならと。それは鮮烈な感情だった。
 尊敬する画家や好きな絵は数えきれないほどあるが、アルジュナ自身が憧れの如く強い羨望でもって、一条の光のようにこんな絵が描きたいと思う絵はいままでなかった。
 それがアルジュナとその画家──カルナの作品との最初の出会いだった。

 予定よりも早く着いたその町は、アルジュナの住む都会よりも穏やかに鄙びた、片田舎と形容するのがぴったりなちいさな町だった。
 地方都市の外れで、思いのほか都市部からの交通網は豊か。都会というほど密に賑わってはいないが、ひとも店もすくなくない。そこそこ便利に暮らすには程よい環境だろう事は、旅人の目にも明らかな穏やかな町だ。
 空港からタクシーとバスを乗り継いで、カフェの最寄りの停留所に降り立ったアルジュナはその町をゆっくりと歩いた。長時間の乗り継ぎで座りっぱなしだったから臀部が痛む。それにボストンバッグひとつの身軽な旅など、随分久しぶりだった。誰も自分を知らない遠い土地は、ひとを自由にする。
 そうして歩く、古い煉瓦敷きの道に行き渡る風と陽射しは澄み渡ってうつくしい。フライト中に見た深い淵のような青とは違う、したから見上げる空は勿忘草の花の色のように目にやさしかった。
「そういうばもう秋か」
 そう誰ともなしに呟いたのは、これまで外で陽射しの下季節を感じる余裕もなかった自身に対する自嘲から。荷造りの際に朝夕の防寒を意識した服を用意しておきながら間の抜けた発言だった。そういえばあんなに明るく長かった夜も随分短くなった。ヨーロッパの夏は、とても昼が長い。
 思いきって遠出したことがよかったのか、久しぶりにストレッチした時のようにからだは伸び伸びとリラックスしている。あんなに重かった心が嘘のように軽い。部屋にながく引き篭っているのは良くない、旅は心の健康に良い。誰が言ったか至言だった。
 ランチにはすこし早かったが、会場がカフェならゆっくり作品を鑑賞しながら食事を楽しむのも良いかもしれない。驚くほど思考が寛いでいる。思考の穏やかさに呼応するかのように空腹を感じた。コーヒーの美味しい店だといいなと思いながらアルジュナは軽快な足音を響かせた。

 遠路遥々辿り着いた目的地。個展会場と記されていたカフェは居心地の良い空間でアルジュナの心はますます寛いだ。
 とりあえず、空腹を満たす為にランチとコーヒーを注文して、ひとの出入りの忙しないだろう席は避け、店の奥側の席に腰を落ち着ける。
 近頃は有名なチェーン店しか利用していなかったので、個人経営のカフェの拘りの一杯など随分久しぶりだった。今日は、いや昨日から久しぶりなことばかりだ。あたたかい香りをふかく、存分に楽しむ。目元が綻ぶのが自分でもわかる。これはあともう一杯欲しい。この店のコーヒーは旨い。
 ゆっくりと空腹が満たされる満足感と共にぐるりと店内を見回す。外観の印象よりも広い店内の、壁沿いのテーブルごとに等間隔に画家の絵は飾られていた。導線がゆったりした店内の奥、突き当たりの壁に大きい作品がひとつ掛けてある。ざっと見たところ、十数点ほど展示されているようだ。カウンター席の上部、メニュー表の横にもさりげなく一点飾られているのが見え、後で違うフレーバーを一杯頼む際に眺めようと決める。
 遠目にざっと見ただけだが、新作ばかりなのかWebに載せていない作品なのか知らない絵が多い。展示作品の詳細は敢えて調べず来たので、知っている絵をゆっくり鑑賞するのも良いが思いがけず未見の絵を見れるのは純粋に嬉しかった。
 店内は平日の昼間だからか、客はぽつぽつと入るが空いている。そろそろ昼時だ。もうしばらくして、ランチタイムにかかれば混むのかもしれない。
 行儀が悪いかもしれないと思いながらも、同時に構わないだろうとソーサーごとコーヒーカップを持ち絵の前に立つ。
 絵画はどれも煌めくようにうつくしかった。やはり陽光の表現が素晴らしい。けっして特別な風景がドラマティックに描かれているわけではない。それでも、なんということはない日常の景色の断片が、穏やかな陽射しのなか祝福を受けている。写実的な絵というわけではないのに、どの絵画も壁に飾られると、ひとつひとつがここにない景色を映す魔法の窓だった。
 それぞれの絵があまりにもさり気なく店内に馴染んでいるので、カフェ利用のみの客はかえって作品を気に留めず寛いでいる。わざわざ立ち上がって絵を鑑賞している者はアルジュナひとりだけだった。
 客が二組出ていき、いよいよ店内にいる客はアルジュナともうひとりになった。常連なのか、アルジュナが入店してからずっと店内にいる男は、注文もせずにカウンターの端の席に陣取って時折カフェの店員となにか話している。
 そういえば画家が何時から在廊するのか記載がなかった。カウンターに近寄り、店員に画家の個展を見にきた旨を伝える。カウンターの男がまじまじと見つめてきたのが、なんとなく不躾に感じて男の視線を避け軽く目礼する。
「画家の方はいつ頃在廊されますか」
「絵を見にきたのか」
 店員が答える前に男が口を開いた。目線をやると椅子に座った男はアルジュナを見上げる角度で、その瞳はちょうど先ほど見た絵の青空と同じ色をしていた。思わず数瞬見つめる。うつくしい色に、先ほど避けた視線とそれが同じものとは思えなかった。
「え、ええ。作品の鑑賞もですが、折角ならすこしだけでも画家ご本人にお会いできればと思いまして」
 アルジュナが少々動揺したまま答えると、視線を逸らさないまま空色の瞳が瞬いた。随分はっきりとひとを見つめるひとだ。コーヒーカップを手に持ったままなことが俄かに気になった。
「行儀が悪くてすみません。個展を見に来たのですが、こちらのコーヒーが美味しくて」
「確かにこの店のコーヒーは旨い。オレは気にしないし、気にする客はすくないだろう。好きに寛ぐといい」
 カップを軽く掲げて詫びると、真面目に頷いた男はまるで店員のように気軽に答えた。やはり馴染みの客なのだろうかとアルジュナが思っていると、改めてじっと見つめてくる。カフェの店員はいつの間にかカウンターからいなくなっていた。
「あの、なにか」
「ああ、嬉しくなってしまった」
 意味がわからず、アルジュナが首を傾げると
「随分熱心にオレの作品を楽しんでくれるものだから嬉しくなってしまってな。有難う」
 思い至ったように言葉を足して、男はちいさく微笑んだ。それまでの無表情然とした温度の無さが嘘のような、やさしい表情だった。それでは、つまり。
「では、あなたがカルナさんでしょうか」
 アルジュナが驚いて言うと、画家──カルナはすこし遠くを見て「何故かオレは作品と一緒にいても画家本人だと認識されなくてな」と憮然としたようにちいさく言った。
 オレは昔からそうなのだ、とすこしさみしげに話した画家は、蓬髪と言って良いほど方々に伸びた髪の先のところどころをピンク色に染めていて、それがごわごわと固まっている。それが何故だかアルジュナの目を引いた。よく見ると手指や袖を捲った腕の素肌にも赤や青、黒や金色、様々な色が筋や斑らになってこびり付いている。ところどころピンク色の毛束になって固まった髪も、たぶん奇抜なヘアセットではなく絵具がくっ付いているのだ。
 何故そんなに汚れているのか不可解なほどに、これだけ実際に絵を描いた、すくなくとも絵具や塗料を扱ったであろう痕跡を全身にくっ付けているのに、確かに言われなければ分からなかった。その旨をアルジュナが伝えると
「なにか用があれば店員にでも聞くだろうと思ってオレはこの場にいるだけに徹していたが、こういうときは首から名札でも下げるべきだろうか」
 難問に直面したかのように問いかけてくるカルナの顔は妙に真面目で、それらの態度のひとつひとつが二重にも三重にも、それまでアルジュナのなかにぼんやりあった画家カルナのイメージと乖離していたから、アルジュナはぽかんと二、三度目を瞬かせた。

 ランチタイムで客入りが増え、立ち話は店の邪魔になると、ついでに昼食を取ると先ほどのカウンター席に帰ろうとするカルナを引き留め、アルジュナは「よろしければ」と自分の席に誘った。カルナは無言で頷き付いてきた。相対して席に着いた相手を改めて眺めると、最初わからなかったがカルナはうつくしい容姿をしていた。そのせいだろうか、全身絵具まみれで、場合によっては不潔に取られても不思議ではないのに、何故か清潔感がある。服にはまったく汚れが見えないせいだろうか。年齢は不明だ。若くも見えるし、口数すくなく口調が重々しいので年上にも思える。相対したとき、目線がぴったりとあうので背丈はほぼ同じ。それでなんとなくだが、自分と同じくらいの年齢だろうとアルジュナは思った。
 絵をしげしげと眺める客も数人いたが、個展の鑑賞の為に入店したわけではないようで、注文が届けば席に帰っていき食事が済めばそのままカフェを退出していった。アルジュナはそんな店内の様子をカルナと話しながら漫然と眺め、時折コーヒーを口元に運ぶ。お代わりはカルナのおすすめのフレーバーを頼んだがこちらも美味しい。コーヒーの礼を丁寧に言った際にも、カルナはアルジュナが作品を楽しんでくれていたことに礼を言った時と同じ表情でそっと喜んでみせた。
 ひと通りカルナの作品について、自分が思うことと賞賛を伝えたアルジュナはすこし照れたように笑った。
「すみません、長々と。なんだか久しぶりにひとと話したような心地で。実際はそんなことはないのですが」
「外を出歩いているか? 部屋にずっと閉じ籠もっていると、知らず知らずのうちに精神が参る」
 そうして調子を崩した知り合いが何人もいるのだとカルナは語った。
「お恥ずかしい事ですが、久々にゆっくり景色を眺めながら外を歩いた気がします。たしかに気分が晴れた気がする。あなたのお陰ですね」
「きっかけになったのなら、なによりだ。ところで」
 やわらかに微笑んだアルジュナの目を、真っ直ぐ見つめたカルナが唐突に言った。
「君も絵を描くのだろう? どんな絵を描く」
 突然の断定した質問。その独特の鋭さを帯びた迫力と唐突な看破に僅かに怯んだが、なるほど、これだけ喋れば画家としてカルナの方もなにかしら己と近いものを感じることもあるだろう。
「お分かりになりますか。ええ、一応、イラストレーターをしていまして」
 申し遅れました、とアルジュナがペンネームを名乗ると、カルナは先ほどの鋭い気配を霧散させて、合点がいったとばかりに食い気味にオレも君を知っていると返答した。
「なるほど……なるほど……。オレも君の作品を素晴らしく思っている。話せて、ましてや賛辞を贈られるなど、とても光栄だ」
 とても光栄だ、ともう一度繰り返して、表情は特に変わらずとも、ほんのすこしだけ頬を紅潮させた、嬉しそうに手を差し出したカルナに握手で応える。
「私の仕事をご存じとは恐縮です。ですが、私の方こそ、あなたと話せて光栄なのです」
 双方あくまで自身については謙虚であったが、カルナが朴訥に、それでもこれまでのやり取りとは比べ物にならないほど長く雄弁に、あの時のあの作品のどこに感銘を受けた等とアルジュナの作品について仔細に賛辞を惜しまないので、アルジュナの方も何故か負けじと語彙の限りカルナの作品の素晴らしさについて言葉を重ねた。カルナの話し振りから、かなりの量と時間、彼はアルジュナの作品に触れていたようだった。アルジュナの方もカルナの作品に出会ってから一年程度とはいえ、作品に魅せられた熱量は負けていない。結果、尽きることなく話していた為、気付けばかなり時間が経っていた。もうすぐ日の入りだ。
 カルナの絵は、暮れゆくの光のなかでも、明るい陽射しを受けた時とはまた趣を異にしてうつくしく佇んでいた。会話が数瞬途切れ、絵をしばらく見つめた後、ちらりと窓の外を眺めたアルジュナの様子を見て、カルナが改めて口を開いた。
「長く話に付き合ってくれて感謝する。楽しい時間だった。ほかに、もしなにか訊きたいことがあれば答えたいと思う」
「つい長く話してしまいましたが、実はなにか特別お訊きしたいことがあって来たわけではなくて。ですが、お言葉に甘えて。何故今回はカフェで展示を? 去年はギャラリーで開催されていましたが」
 展示の規模を縮小した理由について。失礼な質問でしたらすみません。お答えいただかなくとも、と思慮深く言い添えたアルジュナにカルナは「ああ」と極めてなんでもない様子で返答した。
 懇意にしていた画商に色々あって見限られたこと、その画商の伝手で展示をしていたので作品の発表の場を一気に失ったこと、たまたま似た作品傾向のほかの若い画家がカルナの空席を埋め台頭してきたこと。それらを画家はこれまでの会話とまったく同じトーンで話した。
「作品をろくに発表できず、単純に世間に飽きられたのだろう。この一年は絵が売れなくてな。金がなかった」
「ふざけるな! たかがそんなことで! こんな馬鹿なことがあって堪るものか!」
 その自らの受けた仕打ちに対してなんの蟠りも失望もない言葉と態度に、アルジュナには実際にカルナがそんなものを持たなかったことが分かってしまったからこそ、瞬間、怒りが沸騰した。物理的な熱さを感じるほどに腹の底が煮えた。カルナの受けた理不尽と、彼の作品を認めず忘れ去ろうとする世界に対する、文字通り燃えるような怒りだった。
 思わず大きな声が出て、はっとする。周りの客からの注目もだが、カルナが瞠目してこちらを凝視している。
 カルナとの短い──数時間語らったとはいえアルジュナからすればまだ話し足りず、けっして長いとはいえない──会話のなかでも表情が動かないひとだと思っていたから、表情の変化は殊更に顕著だった。驚いているようでも、魅入られているようでもある不思議な表情を向けられて目を奪われた。瞬間、あんなに激しく腹の底を焼いた怒りが引っ込む。
「すみません。あなたに言ったのではないのです。あなたの作品は素晴らしい。こんなに素晴らしく、うつくしいものが世間に認められないなんて許せなくて。つい熱くなりました。失礼を」
 努めて穏やかな声音で真摯に謝罪するアルジュナに、カルナはまだ先ほどの不思議な表情のままぱちぱちと目を瞬かせている。
「驚いた……のかもしれん。鮮やかだな」
「え?」
「いや、こちらの話だ。うつくしいと思う。感謝する」
 カルナの不可解な返答に首を傾げたアルジュナに、もういまは平静の無表情然とした顔に戻った画家は「そういえば」と話題を変えた。
 どこから来たのか問われ、アルジュナが住んでいる都市を答えると、カルナは鋭い眦を僅かに持ち上げて微かに驚きを示した。やはり表情の乏しいタイプなのだろうから、先ほどは余程驚かせてしまったのだろうか。アルジュナが自省しているとカルナは感心したように頷いて言葉を続ける。
「随分と遠くから来たのだな。この町に親類でも住んでいるのか。それとも仕事の関係だろうか」
「いいえ。あなたの作品を是非見たくて。それだけです。最終日に間に合って良かった」
「それは、わざわざ遠路感謝する」
「いいえ。来ることが出来て本当に良かった。無計画に飛んできてしまったので生憎宿はこれからなのですが」
「ブッキングせずに来たのか」
「平日ですから、宿はどこなりと空いているだろうと思いまして。見つからなければ、どこかで飲み明かして朝一番で帰ります」
「徹夜を二晩もか。剛気な事だがそれでは体に触るだろう」
「飛行機のなかで寝ているので大丈夫ですよ」
 実際、機内では普段より深く眠っていたくらいなので疲労もさしてない。体力もある方だ。とアルジュナは笑って答える。それよりも、普段なら他人に言わない領域の事まで話していて、我が事ながら密かに驚いていた。常の自分にはあるまじき無警戒さと気安さだ。
 しかし、そんな思いを持った後でさえ、やはりカルナに対する警戒心はなかった。安心とは違うが──この男は絶対に他者を意図的に悪意をもって害する事はないという確信があった。何故、今日初対面の相手にここまで信頼を持つに至ったのか不思議ではあったが、己の確信に裏切られた経験はない。
 なので、アルジュナはカルナからの「ならばオレの家に泊まるか」という申し出にも特に躊躇もなく頷いたのだ。
 きっと、ここ暫くなかった楽しい夜になるだろうし、実際にそうなった。

 穏便に誘拐されたのではと疑ってしまうほど道が暗い。
 車のヘッドライト以外ほとんど照明もない道をもう短くない時間走っている。闇を切り裂くヘッドライトの黄色い光は真っ直ぐに先を照らしているが、その明るさに周囲はより深い闇に沈むようだった。正直自分がいまどこにいるのかアルジュナにはまったく分からなかった。
 カルナの運転で同乗しているワゴン車は古く、腰掛けた助手席の座面のクッションはへたって薄い。サスペンションも悪いのか、すこしでも道路に凹凸があるとべこべこと座面が尻を打つ。地味に痛い。
 カルナがスピードを出さないから時間がかかっている面もある。安全運転をしてくれているのだろうが、少々不安になってくる。
 そんなアルジュナの胸中を読んだようなタイミングでカルナが口を開いた。
「鹿を轢きたくなくてな」
「鹿がいるのですか」
「山だし森だからな。一度轢いてしまってからは気を付けている」
「それは……大変でしたね」
 なんと言っていいか分からずそう言うと
「猟をする知り合いに連絡したら、翌日肉になって戻ってきた。なかなか旨かったぞ」
「はあ」
「とはいえ、無闇な殺生は避けたい。オレが十全に気を付けていれば、あの鹿はあの時死にはしなかったろう。すまない事をした」
 鹿を轢き殺した後悔があるのかと気を遣えば、あっさりとその肉は旨かったと言う。かと思えば事故とはいえ己の絶った命を惜しんでいる。
 よく分からないひとだと思った。だが、気付けば自分でも思いがけず肯定的な言葉を口にしていた。
「ならば良いではないですか」
「責めないのか?」
 カルナの意外そうな態度を不思議に思う。
「何故? この暗さだ。いきなりライトのなかに飛び込んでくる鹿を、通常の車の走行速度で避けられるとは思えません。それに鹿の命を惜しむ事も、その鹿の肉を旨いと感じる事も両立するでしょう」
 心からの言葉だった。カルナはそれを聞いて、ほとんど表情が動かなかったがなんとなく薄く微笑んだ気配があった。
「稀有な事だ。可哀想に思わないのかと詰られる事も多かったのでな。意外だった」
 ますます、分からない男だと思った。自分の発言を稀有だと称した事も、詰られるかもしれない事を口に出した事も。
 ただカルナが何事にも真摯にあろうとしている事だけはよく分かった。そして、それを自分が心地良く感じている事も。

 閉店を待ち、作品の搬出作業が済むまでゆっくりしているといいとカルナは言ったが、泊めてもらうのだからとアルジュナが手伝いを申し出たところ、そうかと頷いた男にかなり遠慮なく使われた。
 カフェは休日のほか不定期に夜はバーとしても営業しているらしいが、今日はバーの方は休みらしい。以前このバーでバーテンダーのアルバイトをしていたことから、ここの店主とは親しいのだとカルナは話した。
「ここは夜のメニューも旨いから、機会があれば来るといい」
 てきぱきと作業を続けながら、カルナはアルジュナに話しかける。
「オレの現状を聞いて、展示をしてみないかと声をかけてくれてな。有難いことだ」
「たしかに。ここであなたの作品を見れたことは本当に良いことでした」
 カルナの苦境を聞き、手を差し伸べるひとがいることに密かに安堵する。そんなことを話しながら搬出作業を終え、暗い道をカルナの運転で走り、彼の家にやって来た。
 家の外観は、門灯ひとつではここまでの道同様暗くてよく見えなかったが、通されたリビングルームはほどほどに生活感のある落ち着いた空間だった。
「よくひとを呼ぶのですか」
「いや、ここにひとを招いたのは今回がはじめてだ。泊めると言った手前恐縮だが、この家にゲストルームはない。そこのソファか」
 三人掛けのソファを示してみせてから廊下側のドアのひとつを指差す。
「他人のベッドで構わなければオレがこちらを使うから、好きな方を選ぶといい」
 今日初対面の人間に私室の自分のベッドを提供してもいいと言う男にアルジュナは驚愕する。
「いいえ、ソファをお借りできるだけでじゅうぶんです。有難うございます」
 ベッドは丁寧に固辞し、折角だからと酒を開けてもてなしてくれたカルナに付き合い、気付けばアルジュナは眠っていた。
 まだ暗いうちに一度目を醒まし、自分がカルナの家のソファで座ったまま眠っていたことにはっとする。辺りを見回すと、部屋の照明も酒を飲んだテーブルも寝落ちた時のそのままで、カルナもアルジュナと反対側のソファの端で、部屋の様子と同じく服もそのままに背もたれに頭を預けて眠っていた。彼も疲れていたのだろう。泊まり込んで悪いことをしただろうかと一瞬思ったが、一日通して話していた時の感触を思い出して、彼の方も楽しかったし話し足りなかったのだろうと思うと、すこし擽ったい気分だった。
 自分もシャワーも浴びずにそのままなことが一瞬気になった。トイレと浴室とキッチンは案内してくれていたし、勝手に使って構わないと家に通された時に言われていたが、家主が寝ているいま、声を掛けずに家のなかを歩き回ることは憚られた。
 結局、照明だけ落としてそのまま最初眠っていたようにカルナに倣って背もたれにからだを預けた。アルジュナが眠った時に掛けてくれたのか、膝元にあったブランケットはカルナに掛けてやり、自分は荷物に入れていた防寒用の大判ストールを被る。空調が効いていたのでいまは寒くはなかったが、明け方は冷えるだろう。
 思いの外疲れていたのか、ソファに身を預けると途端にうとうとと意識が揺らぎ出す。なんとなくカルナの方を見ると僅かにこちらに傾いた顔が窓からの月光でよく見えた。ここに来る道は月もなく暗かったが、いまは夜空は晴れているのだろう。カルナの静かな寝息を聞きながら、月明かりによる顔の陰影を眺めていると何故だか懐かしい気がして、アルジュナはふと不思議な気分になった。
 今日一日で随分と打ち解けたものだ。カルナの方は分からないが、アルジュナにとってはこんなに急速に誰かと親密になるなど異常事態といえる。
 どうしてだろうと、そんなことをつらつらと考えながら、思考はほかのシーンに飛ぶ。搬出作業の時、ドアほど幅のある作品を壁から外すのに両手を広げて持ち上げている背中。絵はアルジュナが特に長い時間眺めていた街を描いたものだった。どこかの都会の街角。高層ビルが天へ屹立しているが、抜けるような青空が鮮やかに描かれていて閉塞感はない。早朝の時間帯なのか閑散とした街路に淡く陽溜まりができている。
 それをカルナが抱えている様は、陽光と街をやわらかく抱きしめているように見えて、何故だか心の奥がすこしだけぎゅっと痛んだのだ。
 それを思い出して、ああ自分はきっと、いつかこのひととは二度と会わなくなるだろう。そんな予感を持った。
 今日はじめて会った人間に対して、奇妙な感想だった。
 ならばもっと話したいと。自分と彼の時間が尽きてしまう前にもっと。もう一度眠りに落ちる寸前、そんなことを思った。

拍手やご感想等いただけますと励みになります…!