Collage

MP29で発行したJS/SJ本「Collage」を全編再録しました。
書いてから何年も経ったしなと、思い立ったので。

全編リバ前提。
特殊な設定の、不思議なファンタジー風やちょっと気持ち悪い感じのストーリーの短編10編の詰め合わせです。
また色々かきたいな〜!

2016年11月作
(12,850文字)

水母
jellyfish

 気取ったようにあのトレードマークの優雅なコートを着ているとき、シャーロックは飛べる。
正確には飛ぶ、というより舞い上がるようなものらしい。
飛行はできない。
ふわふわと舞い上がることだけができる。
コートを纏ったままマインドパレスに入城したとき、くらげが海面を目指すように、ゆっくりゆっくり揺らぎながら浮かび上がる。
鳥や虫のように直線的にきっぱりと意思を持って動くことはできないらしい。
宙に浮くのに意図しては使えない。意識下にない浮遊。とてもシャーロック・ホームズらしいと思った。
しかし妙なものは妙である。
そしてこの浮遊(なんと呼ぶのが適当なのかが僕には分からない為、便宜上浮遊と呼んでいる)が221Bのリビングで僕とふたりきりでいるときしか発現しないらしい事が、この妙な特性を更に妙なものにしていた。
両手の指先を合わせて、天井の隅に時折ぼんやりとぶつかりながら部屋中をふわふわと回遊するシャーロックは、とても変なものを見た気にさせる。
最初に彼の革靴が床から離れたのを見たときは仰天したし、実際変なものを見ているのだろうが、そういう異常さを許容させてしまうというのもシャーロックの特性のひとつであると思われた。いや、順応という意味では自分の特性でもあるのだろうか。
そんな奇妙であっても馴染んだ筈の光景でも、ふいに視界の隅にゆらゆらと揺蕩うシャーロックのすがたを捉えると、寄る辺をなくしたように僕は不安になる。
もし、もし落ちたらどうするのだろう。
 何処かの国では、くらげは曖昧なものの総称であったらしい。
ゆらゆらと不定形な危うさは彼の特質と似ている。
誰にも頼らないくせに、時々かたちを保てないんじゃないかと思うくらい不安定だ。
いつか透明でつめたい動物性蛋白質のかたまりになって、ぶよぶよと髪も内臓も透かして溶けてしまうイメージが離れない。
そのイメージは僕の腹の底をつめたくする。いつかひとではありえない死骸を晒す彼のすがた。有り得ない。本当に?
「ジョン」
ぼんやりした僕の腕を、いつの間にか重力の制約通りに床に足をつけたシャーロックが掴んでいた。
やわらかに込められた、害意のない圧力。
うえから降るシャーロックの目線は、本人と僕だけがわかる彼の意思を伝えてすこしだけ揺れていた。
どうしたの? ジョン。と声帯の振動で訊ねることができないシャーロック。こういうとき、空気がゆるく震えるように微かに彼は心配を表す。僕の感情には注意を払うシャーロック。
「君、また浮いていたよ」
 ゆっくりと息を吐いて言うと、彼はすこし口元を歪めて不機嫌そうな仕草で僕を見つめた。僕が不安定な気分だと、どうしていいかわからないのだ。
「何度も聞くがそれは君の妄想じゃないのか、ジョン。いままで一緒に暮らした誰にもそんな現象は報告されなかったが」
「少なくとも、ジョン・ワトソンの前ではシャーロック・ホームズはくらげみたいにふわふわよく浮くんだ。僕にとっちゃそれが現実だ」
 お互いに鼻を鳴らしながらのいつもの応酬。それだけでもう僕は不安ではなくなっていた。
 地動説も知らないくせに嫌味なまでにわかりやすい重力の法則の説明をはじめた彼の髪をやさしくかき回す。いまだ僕の腕を掴んだままのシャーロックはそれだけで静かになった。
「君が透明なゼリーみたいに透けちゃったらやだなあって思ったんだよ」
呆然としたように口を噤んだシャーロックが面白くて冗談めかしてやさしく言うと、彼はすこし拗ねたように目を伏せた。
「ゼラチンとぼくとを関連付けてしまうくらいには、君はいま暇らしいな。ジョン、コーヒーを」
さっさと拙い心配を翻していつもの尊大さを取り戻すのは非常に彼らしい反応だ。それでも、最後にゆるく袖を引くようなささやかな僕との接触を忘れない。どんなときでも彼は物事の関係性に反応する。
コーヒーを強請って手を伸ばす彼のすがたは、いまは浮かんでもいなければ、ましてや透明でさえない。
確かな肉の感触で、僕の腕を引く。
「まったく君ってやつは、意識が現実にあるときは僕をこき使うのに義務感でも感じているのかい?」
文句を言いつつ、オーダー通りに淹れたコーヒーを定位置の一人掛けに収まる彼に手渡してやるまでがセットだ。
満足気にマグから立ち上る湯気の香りにため息をついて、存分に鼻腔を膨らませたすがたを確認してから対面の僕の一人掛けに移動する。背を向けたタイミングで、もしぼくがくらげだとして、と前置いてシャーロックはいつにないやさしげな声で僕に話しかける。
「君が透明になったぼくを、知らずに踏んで潰してしまうとしても」
 君に任せるよ、ジョン。
 振り返った僕に、日差しに彩られた彼は、逆光のなか浜辺で夕陽をかえして透明にひかるようなすがたで笑ったようだった。


Octopus

「これは再生できなかったのか?」
左肩の剥き出しの銃創に指を這わせながら上目で尋ねた。
ジョンは僕の髪を辿るのとおなじくらい穏やかな声音で答える。
「覚えていないけど、できなかった。いや、言い方が適切じゃないな。おそらく受け入れてしまったからじゃないかな。」
あのときはすぐ気を失ってしまったから、曖昧なんだけど。
やわらかにまろく掠れた声は、とろとろと耳に馴染む。ウイスキーでもたのしむようなゆるやかな時間。
「もう、いいや。って思ったんじゃないかな」
そんな風にふつうに話してしまう目の前のひとをただ、ああ、ほしいなと思った。喉が鳴ってしまわないように、すこしだけ慎重になる。
「ぼくが君を食べたら君のからだは再生するだろうか」
「どうだろう。僕にもわからないな」
君に歯を立てられるのは気持ちいいだろうなあ。彼はやわらかく答えて、そして愛情ぶかく微笑んだ。
「でも、君に食べられるなら、再生しなければいいなあとは思うよ」


cat

ねこのシャーロック。
真っ黒な毛並みがふわふわでかわいい、私のシャーロック。
こんなにおおきくなってしまったから、だれの懐にもはいれない。
それが、私はときどきかなしい。
勿論、私はシャーロックがねこなどではないことを知っている。
自分のことではないのに、他人の可愛い部分がかわいくてかなしいと思うというのは、とても不思議に透き通った愛情であり、屈折した愛情表現なのだと思う。
それは本来、自由である筈のものを囲っている感覚にすこしだけ似ていて、傲然として卑劣で、慈愛に満ちている。
ときどき私は自分の手のひらを見て、これでやわらかく輪郭を撫でるか、したたかに打ち据えるかを常に選んでいるのだということを思い出す。
どちらも選べるのだという事実が、私を非常に動揺させる。
そんなとき、彼はとてもひととは思えない野生動物の目をしていて、その透明ないろの眼差しで私を見るシャーロックには、そういった類の邪悪さがあるようにはとても見えなかった。
それも、かなしい。
事件不足で酷く苛立って緊張していた彼の背中を、何気なくさすってやったことがある。
荒ぶる動物を宥めるようにやわらかくさすってやると、ずるりと力が抜けて、そのまま脱力してしまった彼はとても驚いたようだった。
まじまじとこちらを見つめた瞳のいろが忘れられない。間違いなく、それをどう捉えたにせよ彼にとっては特別な出来事だったようだ。
それ以来、私がピリピリしていると背中に手のひらを押し付けてくるようになった。
シンプルでまろやかな、どこにも打算なんてない、絶対的な愛情表現。その無垢さに私は泣きそうになる。
シャーロックはジョンが好き。
彼はただそれだけのシンプルさで、一瞬の感情の高まりをたのしむような不純物の無さで、私と居ることを好み、愛している。
そう、それだけを愛している。
きっとそれは、ひとが持ち得るには稀有な種類の愛情で、私にはそんな風になにかを愛せるシャーロックの在り方がさびしく、そして狂おしい。
それでも、彼のことが愛しいと、私はひとりの時間に時々泣く。彼を愛すのに余分な憐憫を振り落とすように。
私はねこを可愛がるようにシャーロックに触れる。
彼は私がどのような思考過程を経て、どのような気持ちでそうしているかを知っている。
そしてその扱いを承知していて、そんな傲慢な私の手のひらをやさしく舐めるように、今日もシャーロックは私のとなりをあたためている。

枯れ枝
branch

彼はそれをいかにも不味そうに、仕方なしにと口に運ぶ。
控えめに言ってもおいしくはない豆のスープを咀嚼しながら、がりがりと乾いた木肌を噛む彼を見つめる。
ひとのすがたをしているものが、枯れた枝を食べている様は異常だ。
しかし僕には異常性を意識する以前に、そのすがたがとてもかなしく見えるのだ。
彼の食事は、かなしい。
硬く渇いた木の筋は彼の口内を傷つけ、血を滲ませる。
ひとの口は、枝を食べるためにできてはいない。
「落ち葉は駄目なの?」
「好きじゃない」
なんで、と問えば
「君こそなんで乾燥した落葉樹の葉なんて勧めたがるんだ?」
心底不思議だと言わんばかりに訝しげに彼は訪ねる。
「鹿とかが食べてても落ち葉の方が美味しそうじゃないか。なんとなく」
せめて、美味しそうに見える方が食事っぽい。それが僕側の納得のための、シャーロックの事をほんとうに考えての言葉ではない事が僕を虚しくさせる。
「ぼくは鹿じゃないし、これは食事ではない。食餌だ」
ぼくにとっては。
そう心底うんざりといった様子でまた枝をがりがりと噛んだ。
こまかな木屑がぱらぱらと彼の白いシャツに落ちる。
お互い無言で、僕は見つめ、彼は噛む。
木片を臼歯で砕く咀嚼音を聞きながら、しばらく彼の言う食餌行動を複雑な思いで見つめていると、徐ろに目線をあわせ弦のように目を細めたシャーロックは僕の目を捉えたままバキン、と鋭く乾いたおとをたてて奥歯で枝を折った。
一呼吸置いてから薄く笑ってこう言う。
「選べるのなら、枝など食べない」
鹿は木の皮や枝で冬を越す。
おいしい落ち葉はふかく雪のしたで凍っているから。子どもの頃、図鑑で知った野生動物のはなし。
選べるなら、選んでる。
選べるなら、彼ももっとやわらかいものを求めるだろう。立てた歯がやわらかく沈む、そういうものを。
切れた唇から一滴。
狩られた草食動物の、雪のうえに散る色のことをつよく思い出した。
僕はただ、彼のくちびるの端から垂れる赤色が、咥えた枝とのコントラストが、肉を意識させるなんてことに気付きたくなんてなかった。なんてぼんやりと考えていた。

契約
marriage

「シャーロック、僕の恋人になってくれないか?」
麗らかな午後、定位置の一人掛けで愛用のシグ・ザウエルを整備していたジョンは事も無げにぼくに問いかけた。
「何故?」
なので、ぼくも事も無げに問い返す。
「ゆくゆくは結婚したいから」
室内にいるのに、何故かジャケットを着たままのジョンはいつもと変わらない様子で答えた。彼はいつでもぼくを真っ直ぐ見つめる。
「それは死ぬまでぼくと一緒にいてくれることと同義だと解釈するが、答えはイエスだ、ジョン。書類上の契約を交わそう」
誓約書を出せ、どうせ既に貰ってきているのだろう。横になった長椅子から左手を伸ばして催促すると、ジョンはすこしだけ怪訝そうな顔をしていた。
「拍子抜けするくらいあっさり承諾しちゃってるけど、君ほんとうにいいと思ってる?」
一応確認しておくけどさ。立ち上がって長椅子に近づくと胡散臭そうに見下ろしてくるジョン。先ほどまで手にしていた愛銃はどこかに仕舞ったらしい。彼の持ち物が仕舞われる先はすべて把握している。多分、彼自身より詳しい筈だ。
「君はぼくが断ったときは、ぼくを殺して自分もすぐに死ぬつもりだったろう?」
腰に差した、整備したてのシグで。
彼は目をぱちくりさせると、
「なんでわかった? ああ、いまはいいよ。あとで聞く。そうだよ、流石は名探偵だ」
素晴らしい。そう言ってジョンは満足そうに微笑んだ。眉間に皺の寄った、物騒なジョンの笑顔。
「その殺気では気付くなという方が無理があるぞ、ジョン。ぼくをほかから独占したいと? 好きにしてくれ。ぼくは君がいればそれでいいから」
手を振って上目に見つめながらそう答えると、彼はみるみる瞳孔をふかくして相好を崩した。今度は少年のような晴れやかな笑顔。この笑顔は貴重だから、サンプル採取にちょうど良い。
「僕はもうずっと君をあらゆるものから寝取りたかった。有難う、シャーロック」
そういってジョンは長椅子の座面を占拠しているぼくに覆い被さるように抱きついてきた。彼の、あたたまった健康な人間の匂い。
きっとこれは脅迫になるのだろう。ジョンの首筋にふかく鼻を押し付けて考える。
しかし、ぼくにとってもジョンが手に入るならなんだっていい。
ぼくが逃げたら、ぼくを殺すつもりだったジョン。ジョンがもし、逃げ出そうとしたらぼくはどういうアクションを起こすのだろう。
ジョンの肩口に首を擦り付ける。ぼくの匂いと混ざると、彼の匂いも変わるのだろうか。
それはなんだか素敵なことのように思われたが、ジョンがからだを離して瞳を近づけてきたので、この思考は一時中断だ。
近々と見るジョンの、いまは青みがかって見える濃い瞳もただの人間の光彩でしかないし、セックスとか恋人とかどうでもいいけど、ぼくはとても満足していた。
だって、とにかくぼくは、喉から手が出るほどジョンが欲しかったのだから。


fantasy

雨の日には、部屋のなかでも雨が降りしきる。
それは僕だけに見える雨で、実在しない架空の雨だ。
幻視であるとわかっていても、僕の目にはそこのティーカップの縁で跳ねた雨粒や、経年による劣化で表面のくぼんだふるい本の革表紙にちいさな水溜まりができているのが見えている。
不思議なのはそんな水浸しの部屋のなかで自分自身はすこしも濡れないことだ。
自分が濡れているかいないかで、幻視か現実か判断するなんておかしなことだという自覚はあるが、仕方がない。
シャーロックは当然、同居早々僕だけの〝雨〟の存在に気がつき、それを僕がどのように知覚しているのかまで看破した。
彼のスキルはどんなときでも素晴らしく冴えている。
「やはりぼくもびしょ濡れに見えるのか」
 窓硝子を滑る雨水を透かして、表の通りを見下ろしていたシャーロックも部屋のなかのものすべてと同じように雨に降られていた。
「うん。髪のさきから雫が垂れてる。そんで、君が直にシーツなんて着てるからいろいろ透けてて目のやり場に困る。服を着ろよ」
 全然困ってなんていないし今更な事でも、一応、意義申し立ててみる。濡れたシャーロックは綺麗だから。特に、雨に濡れたすがたは。
「ぼくは濡れ鼠。そして君自身は濡れていない。ずるいぞ」
僕の発言を無視して僕にずるい、とのたまう。事件もなにもないから退屈なのだ。こちらに目も向けずに恨めしげにそとを見下ろす背中。張り付いたうすい布地が、肩甲骨をくっきりと浮かせている。
「実際には濡れてないんだからいいじゃないか。そもそもひとのいる空間で”降って”見えるなんてはじめてなんだぞ」
この幻視はプライベートな室内でしか起こらない。
いままでは室内に自分以外の人間がいるときには、それが家族や恋人であっても幻視が発現したことなんてなかった。
 シャーロックは僕にとって紛れもなく特別だ。代え難い、と言ってもいい。いつか彼が自分のとなりから居なくなる可能性をうまく想定できないくらいに。
彼のちかくに立つと、ふわりと色濃く、彼そのものの匂いがした。
濡れたことで際立つ、決して清浄ではない生き物のたてる匂い。陸の生き物は、湿気が体温であたためられると、気配を増幅される。湿気が体温であたためられて、生き物はその存在を濃くする。
もう半歩近づくと、シャーロックは野生の馬のような動作で目にかかった前髪を払った。首を巡らせ、やっと僕を見る。いまは青灰色に見える瞳は、窓を伝う雨粒と同じだけ澄んでいた。
一瞬だけ首を伸ばして僕のこめかみの匂いを嗅ぐと、そのまま元と同じように窓のそとに視線を戻した。
また、起き抜けの首筋のように色濃い匂いが仄かに立つ。
生き物として彼が存在を濃くしている。
窓硝子に額をつけるように、そとを覗き込む彼のうなじは白くて、髪はやはりおもたく湿っていた。
シーツの皺に溜まった雨水が、布地にしろく透けた肌が目にうつくしい。あたたかい季節の雨が、ぬるく緩んだ空気を纏うように触れずとも体温を感じさせる確かな質感。
雨によって変化したシャーロックの様子を辿る。
まさしく生物然としている彼は好ましい。
振りむいた彼の白い鼻の頭には雫が留まり、白い肌にすこやかに水の粒が纏いつく。
僕にとっての特別が、架空の雨に濡れて存在を嵩ます、なんて一種のファンタジーだ。
うつくしいファンタジー。
やっぱり、僕は僕だけの雨が好きだった。


body

ジョンは眠ると石のようにつめたくなる。
氷のように冷えているわけではない。ただ、冬眠した恒温動物のように体温が低下する。寝床を共にするようになってから知ったことだった。
死体と寝ているようだ。そんなことにぞっとするなんて、そのことに恐怖をおぼえた。少なくとも生きていないものに恐怖をおぼえたことは、ない。
だからジョンの死体みたいなからだに怯えた事実はひどく不気味だった。いつもあたたかい手のひらをしているジョン。その残滓を追うように寝床のなか、からだを寄せる。
寄り添いつづけるとほんのすこしだけ、触れつづけた部分だけに温度がうつる。その事に僕はたまらなく安堵する。
ごくごく細い呼吸をするジョンのつめたい胸に顔を埋めても、彼は起きてくれない。彼の眠りはふかく、朝まではいまだ長い。
いつか死に至る毒のような緩慢さはぼくには必要なかった。
静寂と夜闇のなか、そのつめたさに沿うことだけで、彼を抱いていられるのならそれでもいいのかもしれないと、すこしだけ泣いた。

回答
Answer

「こんなにぼくは君を好きでいるのに君がそうでないのは不公平だ」
日曜の午前中という穏やかな筈の時間に、突然訳のわからない言動で騒ぎ出すのがシャーロック・ホームズという人間だ。
「その理論でいくと君が俺に恋してないのは不公平だということになるぞ、シャーロック」
呆れて呟くと、素早く切り返してくる。眦がつり上がった、シャーロックの目。
「それは同じことだろう、ジョン!」
「そこはわかるのかよ。意味わかんないな、おまえ」
「ぼくはなんでもわかっている! ジョン、不公平だ」
なんとかしろということらしい。なんとかしてほしいのはこっちの方だ。思わずため息をつく。
結果も結論もすでに出ていることで論議するなんて、なんて馬鹿馬鹿しい。
「馬鹿馬鹿しい!」
しかし、いつだってシャーロックの方が先に叫ぶのだ。

標本
specimen

そこは海のなかだった。
目を覚ましたシャーロックは爪先から頭の先まで水に浸かっていて、視界は水中であるのに揺らぐこともなく妙に鮮明だった。
すこし先は真っ暗に沈んでいるのに、周囲はうつくしい海に潜ったときのように透明な青いひかりで満たされていた。
手を伸ばすと透明な壁に触れる。
ちょうど、柱に閉じ込められたらこんな感じだろう。
「シャーロック。おはよう」
ジョンはシャーロックの記憶のなかより幾分年齢を重ねている以外、いつもと変わらぬ穏やかさでシャーロックに挨拶した。
「やあ、ジョン。久しぶり。と言った方がいいのか?」
 水中である事と、おそらく数年単位の時間の経過があっただろう事実を無視してシャーロックの喉からは、すべらかな言葉と数粒の泡が滑り出た。
「まあ、そうとも言うかもしれないけど、そんな挨拶別にいらないよ」
 おはよう、シャーロック。ジョンはもう一度懐かしむようにやさしく言うと水槽の傍らにある機械の操作をはじめた。ジョンの手元と部屋全体を見渡すと、どうやらここは随分様変わりしてはいるがバーツの実験室らしい。
シャーロックの水槽のために必要な設備の関係か、現在ジョンはここを拠点にして生活しているらしいことは部屋の様子から読み取れた。
それにしても暗い。光源は水槽のひかりと机に置かれた小振りなキャンプ用電灯ランタンだけだった。床にガソリンのタンクと小型バッテリーが見える。電気は停まっているのだろう。
「目が覚めたなら服を着ろ。そっちに送るから」
「ぼくはこのままでも構わない」
 自分が全裸である事には気がついていたが、特にそれについて感想を持たないシャーロックは、手を振って腕を組む。からだの動作にも別段問題はない。そのリアクションに対してジョンは露骨に顔を顰めてじろりとシャーロックを見る。
「僕は構う。気まずいだろ」
「ぼくは気まずくないし、 水中で着衣する難儀さが君にはわからないようだな、ジョン」
「馬鹿か、君の都合は聞いてない。僕のためにやれっつってんだ」
目を眇めたジョンが凶暴な顔で命令するので仕方なしに着衣を試みる。ジョンは丁寧にコートまで送り込んできていた。
「靴下と靴はいいのか?」
「見つからなかったんだ。まあ靴とかはなくてもいいよ」
 変なことを言うジョンに、管を引っ掛けるなよ。と言われてシャーロックは腰のしたから数本束になって伸びている太めのチューブに触れた。水槽の外側に繋がっているのが見える。うまくチューブが引っかからないようにシャツの裾を収めてトラウザーズを履いているシャーロックを見てジョンは、君は器用だなあと感心したように言った。
 もたもたと、それでも黙々と服を着ていたシャーロックは、監督するように仁王立ちで自分を見ていたジョンが、よく観察していないと気付かない程そっとため息を落としたタイミングで彼らしい唐突さで口を開いた。
「何故丸ごと体を再生させた? 技術的に脳だけでもコミュニケーションは取れただろうし、その方がこの技術を見るに再生・維持は楽だったはずだ」
「流石だシャーロック。でも脳だけの君を、僕は君だと認識できないから」
「なるほど。ジョンだものな」
「茶化すなよ。僕はこの手の才能がなかったのか、十五年も無駄に食っちまった」
項垂れて頭をがりがりと掻きながらジョンは自重気味に言った。ほんとうに悔しいらしい、後悔の滲む声だった。
シャーロックは目をぱちぱちとさせて、彼らしい早口で問う。
「この手の研究で成果が出るにはあまりに早い。おそらく死に物狂いで研究した結果で、そしてこの研究は成功であるはずなのに君はあまり嬉しそうに見えない。何故だ?」
「あと三十七時間しかないんじゃ喜びマックス、ってなリアクションは出来ないよ」
僕はもっともっと君と居たかったんだ。拗ねたように唇を尖らせてあーあとため息をつきジョンは手近にあった椅子に腰掛けた。
「やけに正確なタイムリミットだな」
「覚えてるか知らないけど、ちょっと前に人類の大半が死んだんだ。映画にありがちな未知の病原菌でね。君がいままでほとんど死んでいたのはそのときの影響だ。で、いまのこった時間がもう三十七時間しかない理由は核施設の誤作動だ。いま生きてる人間の誰にも止め方がわからない」
「部屋の様子から現在の君と世界の大体の現状は推理できていた。しかし、ぼくがほとんど死んでいたのは初耳だったな」
シャーロックは大真面目に言い、ジョンをじっと見つめてから目を伏せ、一拍置くとしずかにポツリと付け足した。
「遅効性の、コントロールの効く毒物」
「amazing! 流石だ、シャーロック。やっぱり君は凄いな。うん、焼け死ぬのは嫌だから先に飲んだ」
でも、君と会うのに間に合ってよかったよ。君とまた会える可能性は、とても低かったんだ。君とまた会えてほんとうに嬉しいし、人生の最後にふさわしい、素晴らしいギフトだった。
ジョンは穏やかに言う。心からの言葉だとわかる、誠意のある声音だった。
ジョンは暫くじっくりとシャーロックの目を見つめてから、空気を変えるようにパシンと手を打つと、気安い調子で水槽の、シャーロックの肩のあたりの高さをタップした。
「折角の十五年振りの再会だ。コーヒーくらい淹れてやりたいが、あいにくコーヒーは人類と共に消えちまったし、あったとしてもいまの君では飲んだり食ったりは難しい」
「だろうな。栄養や体機能の循環はこの管から。推測するに、ぼくはここから出たら肉体を維持できないのだろう?」
君のコーヒーがもう飲めないのは残念だ。
液体に漬けられて二度と狭い水槽から出られず、もうすぐ世界が終わるらしい状況よりも、シャーロックはジョンの淹れたコーヒーをもう味わえないことを悲しんだ。

そこからの三十六時間は、ふたりは一睡もすることなく、ジョンは水槽の壁に背を預けて、シャーロックはしゃがんだような姿勢でジョンのすぐ近くに浮かんで絶え間なく話し続けた。
過去の事件の話やフラットで共に暮らした日々のこと。ひとりだった、ジョンの十五年間。馬鹿馬鹿しい、お互いにだけ通じるジョークで盛り上がり、話の検証のためマインドパレスに潜ろうとするシャーロックをジョンが柄の悪いスラングで引き止めたり、時々眠そうな様子を見せるジョンにシャーロックが寝不足のハダカデバネズミそっくりだと言って怒らせたりした。こんなに楽しい時間はない、というほど、ふたりはずっと笑って過ごした。
時間の感覚を消失するほど熱中して話し続け、そろそろどれだけ時間が経ったのか皆目見当もつかなくなった頃、目尻に涙を浮かべて笑い転げていたジョンの顔色がほんの数分前と比べると急激に健康的な色を失くしている事にシャーロックはすぐに気がついた。
そろそろ、タイムリミットらしい。
どちらからともなく話が途切れ、互いの瞳を見つめあう。ややあって穏やかに目を細めたジョンが口を開いた。
「さて、そろそろ僕は死ぬようだ。どうする? 一緒に心中でもするかい?」
君の維持装置の停止ボタンを押すくらいの元気はあるぞ。ジョンは死に際とは思えないような快活な声と目でシャーロックに問う。
「最後だ。君の望みを訊きたい」
「普通は死にゆく者が生者に望みを託すのでは? 例え僅かな時間の差しかなくとも。今更だが君は変わっている。でも、そうだな」
シャーロックは銀色の泡と揺らぐ水越しにジョンを見る。
最後ともなれば、直に君を見ていたかったよ。唇の動きだけで告げてシャーロックは穏やかに微笑む。
「ぼくは、ぼくが停止するまで君を見ていようと思う」
ジョンはにこりと笑って、僕こそそれがしたかったのになあ、と笑う。
「君ののこりの数時間ちょっとの退屈が、すこしでも僕だったもので紛れることを祈るよ。有難う、シャーロック」
ゆっくりと最後の声を穏やかに紡いだジョンは、ほんの少し左手を浮かせてシャーロックの水槽に触れると、そのまま目を閉じ、もう動くことはなかった。彼はもうそこには居なかった。
暗い、自らが浮かぶ水槽から漏れる青い光とジョンだったものが寝む研究室で、彼だったものの左手に添わすように右手を差し出し、ひとりシャーロックは銀色の泡を零しながら呟く。
「おやすみ、おやすみ。ジョン」

曙光
daybreak

それは雨のようなものだった。
予期せぬタイミングで降りだすこともあれば、折良く濡れずに済むところを見つけられるときもあった。ある程度予想はできるが思い通りにはならない。
予報は予言ではないから確実ではない。
自分の眼窩から時折り溢れ出すその水に対して、シャーロックは特になんの感想も持っていなかった。
眼球の保護のために流れるわけでもないし、感情とは疎遠なので特にかなしいといった情動が理由でもないと考えていた。
いまのところ何にも支障をきたすこともなかったので彼はそれを放っておいたが、ただひとつ対策を取っていた。シャーロックはひとりきりになるときしか泣かなかった。
 ジョンと過ごす時間が長くなればなるほど、シャーロックは自身のこの雨のような落涙現象を覆い隠すことが難しくなっていた。
 証拠を隠す事は簡単だったが、〝雨降り〟のタイミングはジョンと出会う依然より測り難いものになっていた。
そして、ひとり夜も明けぬ時間に抑えがたく見舞われた〝雨〟に途方に暮れていたとき、タイミングでも測っていたかのような完璧さでジョンは彼を見つけた。シーツの影に隠れているシャーロックを、ジョンは弱った子猫でも拾い上げるように労った。
「君は昔からそんなに頻繁に泣くのか? それはずっと?」
「僕はひとりで泣くから関係ない。君にも。誰にも」
静かな声で訪ねたジョンの声と同じくらい、シャーロックも静かに答える。何故か諦念と安堵の入り混じった気分だった。
「君といっしょにいる以上、俺に関係ないとは思わないし実際全然関係なくない。泣いてる人間をほっとけるかよ。しかも泣いてるのは君だぞ。ほっとけると思うのか」
「そういうものか」
「そういうもんだよ」
放置できないと強調されてシャーロックは戸惑った。何故だろう? しばらくひとりにしてくれさえすれば収まるのに時間と手間の無駄では?
思ったままを伝えるとジョンはすこし困ったように微笑んで
「じゃあ俺は君が濡れないように傘にいれてやろう。俺がいないときは自分で傘を差すんだぞ」
「僕は傘なんて持たない。兄とお揃いなんて寒気がする」
「ははは、確かにずぶ濡れで走りまわってる方が君らしいよ」
「馬鹿にしているのか、ジョン」
まさか、と言いながらゆっくりと額に伸びてきたジョンの左手をシャーロックは拒まなかった。
伺うというほど慎重な動きではなかったが、それでも何気なく逃げられる程度の隙をあたえた、ゆっくりとした動作だった。
やわらかに触れたジョンの指さきはシャーロックの前髪を横に流し、てのひらは更にゆっくりとその額を撫でた。
シャーロックはジョンの手のひらの感触を目を閉じて味わった。やさしい、やわらかな感触だった。
いつか彼の胸に額を預けて、背中を彼の手のひらであたためられて雨が過ぎ去るのを待つこともあるのだろう。促されるまま、ジョンの両手に抱きしめられて、シャーロックは考える。
手を伸ばして拒まれないなどと、都合のいい夢のようなことをシャーロックは信じていなかった。突然気がついたそれに、乾いたはずの彼の頬にまた一筋雨が流れた。

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