三次元の解像度2

第2章、エキセントリックヘアスタイル(絵具仕立て)な画家のカルナさん(39歳)とお疲れイラストレーターのアルジュナくん(28歳)同居手前に漕ぎ着けるの回。

2はカルナさん視点です。

次あたりからじんわり宿痾してくるのでお楽しみに。
これを書いてる中のひとは職業:絵描きですが、油絵はペーペーです。最近油彩もリトライしてるので勉強し直しながら書いてます。

※Caution※
・口調・三人称等は現パロなので適宜現代語っぽく変更している箇所があります。
・後からR18シーン有り(#2にはR18シーンはありません)

上巻を2022.3.24春コミで発行しました。
成人向け/文庫/小説/96p/本文43909文字
中巻を8/28 GOOD COMIC CITYにて発行予定です。通販については8/28のイベント後を予定しています。

2022年2月作
(10,633文字)

「アルジュナと呼んでも? オレのこともカルナで構わない」
「構いませんよ。では、私も。カルナ、と」
 敬称を排すのに、上品に名前の手前で一区切りして己を呼んだ男はとても礼儀ただしく誠実だった。
 深夜の手前、今日はじめて会った男と酒を飲む。
 アルジュナと昼間長く話した際に漠然と、隠れたい、とは違うが静かな場所で休みたいのではないかとカルナには思われた。だから、自宅に招いた。アルジュナに、己の設た住まいは彼がひととき憩うにはきっと良いと思われたから。
 昼間の疲労と軽い酩酊に巻かれて、取り留めなくたわいない話を織り交ぜて昼間の延長のように暫く会話は続いた。その折、なんの脈絡もなくアルジュナが泣いた。
 なにがかなしいのか分からないけれど。しずかに一筋泣いたアルジュナをカルナだけが見ていた。
「ああ、どうしてでしょう」
 豊かな睫毛からまたひと雫。ぽたりと落ちた一滴がアルジュナの手の甲に落ち、透明な玉をつくる。ゆっくりと驚いた後、おだやかに微笑んだ顔は陰を孕んで可憐で。
 ああ、まただ。アルジュナの感情が鮮烈に己を焼くイメージ。カルナは我知らず手を伸ばし、アルジュナの頬を滑り落ちる涙を拭った。
 かつての恋人に対してもしなかった動作だった。

 朝日が顔に掛かって目が醒めた。
 日が登りきってから目醒めるなんて随分久しぶりのことだった。カルナの一日は通常、日の出の頃、まだ空も暗いうちにはじまる。
 朝特有のやわらかな光が窓から部屋に射している。斜めに切り取られた光のなかには、魔法じみたうつくしさで微細な埃がきらきらと舞い満ちて、なんということはない日常空間を一種荘厳な非現実さで彩っていた。
 朝日はすべてを金色に染める。ただそこにあるだけの存在のすべて、たとえ塵の一粒であろうともひとつひとつ世界に祝福されているように感じられる。カルナはそれを見るのが好きだった。
 昨夜は酒を飲んでソファでそのまま眠ったようで、服も部屋の様子も昨日のままだった。
 身を起こして横に目をやると昨日家に連れて帰ったアルジュナが眠っている。カルナの感覚では何故か、家に泊めてやったというより連れて帰った、という方がしっくりくる。昨日はじめて会った人間に対して、どうにも奇妙だ。
 アルジュナは眠りがふかいのか目元に日が差していても目醒める気配はない。艶々と黒い睫毛と髪に金色の陽光が透けている。精悍な印象を与える頬と鼻梁に落ちた影が、彼のふかい色の肌をより黒に近く、日が当たってやわらかく透けるように色を軽くしている箇所とのコントラストが顕著で思わず指先で辿りたくなるほどだ。朝日に照らされ眠る男はうつくしい。麗しい花の花弁に思わず触れたくなるように、この男に手を伸ばす者は多いだろう。自分もそのひとりなのだろうか。分からない。
 ただ、アルジュナに人間として惹かれたのは確かだ。礼儀ただしく、柔和で機知に富むアルジュナとの会話は楽しかった。単にもっとこの男と話したいと思った。だから、アルジュナにカフェで席に誘われた際も付いて行ったし、家に泊めてもいいと提案した。
 最初に目にした時のアルジュナの表情は、未だ鮮明に脳裏に焼き付いている。カルナの絵の前で、背筋をすっきりと伸ばした優雅な所作でコーヒーカップとソーサーを両手に抱えて一見リラックスしているように佇んでいた。しかしその目は鋭ささえ感じるほどに凝らされている。周囲の世界を眼前の対象以外から切り離している。素晴らしい集中力だ。それでも情熱、なのだろうか。作品に魅入られた鑑賞者の忘我とは違う、その目にはカルナの絵を鑑賞する事への集中だけに留まらない尋常ならざる激しい感情が渦巻いているのが見てとれた。上品な立ち振る舞いと激しい感情のアンバランスな均衡のうえに立っている。あくまで、優美なすがたで。
 どれだけの努力と知性、忍耐でもってそんなところにひとり立っているのか。きっとカルナだけが、昼間の明るいカフェの一場面でその光景を見ていた。強烈だった。こんなものを見せられて目を、知覚を奪われずにいられるだろうか。
 それでつい、作品を鑑賞している彼をそれとなく気にしていたし、アルジュナがカルナの個展を見る為に来てくれたと知った時は思わず話しかけたのだった。
 アルジュナに惹かれたのは、雄弁にカルナの作品について感想を語るすがたが溌剌として本当に気に入ってくれている様が伝わり嬉しくなったというのもある。これまで、自分の作品を鑑賞している者に話しかけるとタイミングが悪いのか理由は不明だが、途端に客は驚いて帰ってしまうかカルナの外見に興味を示して作品自体から注意を逸らしてしまうのだ。だから、なるべく鑑賞者には話しかけないスタンスで過ごしていたのだが。アルジュナは、カルナの作品への関心とカルナ本人への興味のバランスがとても良かった。見た目と立ち振る舞いの上品さに愛嬌が乗るとほんとうに魅力的な男だ。自制していても興奮しているのか、肌の色が血色の良くなった部分が瑞々しくやさしい、オレンジとも朱ともつかない夕陽の色に染まる様がうつくしいと思った。
 ただ、注意深く観察していると、その好感溢れる態度の内側から時折暗鬱とした影が滲み出る。きっとその影の存在を最初から注視していなければ気付けないほど、巧妙に覆い隠されている。厚く緻密な、知性と自制でもって織られたヴェールの奥。その影の、重く深い様にこそ惹かれながら。
 驚いたのは彼がカルナのよく知るイラストレーター本人だった事だ。驚きと共にほんとうに嬉しかった。ほとんど歓喜に近い感情だったように思う。 アルジュナの作品にはじめて触れたときの事はよく覚えている。アルジュナの作品との最初の出会いは街角で見かけた商業イラストレーションで、一瞬で衆目を吸い寄せるキャッチなものだった。
 直線と曲線の調和が見事な作品だった。自分ではこうはいかない。
 鮮やかだが色数を的確に絞って、必要なだけ。たしかなセンスと技巧・知識に裏打ちされた色の構成と相まって、素晴らしい絵だ。完璧にコントロールされた世界はアルジュナの意思でもって豊かにうつくしく、そして悲しい。そう、優美で力強い筆致だがどこか寂しく悲しい。
 ときにしずかに泣いているかのように細くやわらかな揺らぎが作品に垣間見えて、それがアルジュナの絵に有機的な、生命力と呼んでも良い温度とやさしさを与えている。
 きっと、本当に悲しいのだ。寂しいのだ。それがなにに由来したものであるのかは計り知れないが。
 きっとそれらはこのつくり手の作品の主題ではない。無意識により織り込まれた要素だろう。寂しい絵というものに魅力を感じたのははじめてだった。誰かの作品を愛おしいと感じたのも。そして、同時に理解していた。この作品にこういったものを見出す者は決して多くはないだろう事を。世間の彼(アルジュナの性別は後に知った事だが)への評価は最前線でキャッチな作品を発表し続ける、若くして華やかに成功したイラストレーターだった。
 アルジュナの作品は彼の涙で出来ているのだと思った。ならば、アルジュナの涙は豊かな雨だ。きっと多くの人々を潤す。それは素晴らしい事だろう。しかし、では誰が彼を潤すのか。
 作品の雰囲気から、おそらく自らの作品に陶酔できるタイプではないだろう。誰か、なにかでもいい。彼の心を憩わせるものがあればいい。勝手ながら心から願った。同時にもっと他の作品も見たいと思った。アルジュナの作品に触れた瞬間から既にファンだったのかもしれない。
 思考に沈みながら立ち上がったカルナのからだを滑り落ちたブランケットは、昨夜先に寝落ちたアルジュナに掛けてやったはずのものだ。夜中に一度目が醒めたらしいアルジュナが、不精してなにも掛けずにそのまま寝たカルナに掛けてくれたのだろう。アルジュナ本人は彼自身の私物らしいストールに包まっていた。一度起きたのなら、もっとからだの休まる姿勢や場所で眠れば良かったものを、何故か律儀に最初の姿勢に戻って眠り込んでいる。
 カルナが己の思考を検分するついでに、睫毛の生え際まで見えそうなほどまじまじと顔を覗き込んでいると、視線が煩わしかったのかアルジュナはううんと唸って身を捩った。その動きで顔に掛かっていた朝日から逃れて、座面に背を預けて座る姿勢で眠っていたのが上半身がずり落ち、ソファの座面に半端に蹲るかたちで落ち着く。その動きは、アルジュナが昨日ずっとそうだったような姿勢ただしく行儀の良いすがたとかなりギャップがあり、なんだかあどけない。
 他人に対してここまで無防備なタイプに見えなかったことから、意外なすがただった。本人は疲れていないと言っていたが、知らず疲労を溜めていたのだろうか。
 数日予定は空いていて急いで帰る必要はないのだと昨日話していた。好きなだけ寝かせてやろう。そう思って、いつの間にか己に被せてあったブランケットをアルジュナに掛けてやった。上半身を捻ってからだを倒しているような姿勢だから、足もソファの座面に上げてやろうと膝に手を伸ばすと、アルジュナはちいさく不機嫌な唸り声をあげて触れられる前にカルナの手を避けるようにくるりとからだを丸めた。猫のようだ。行き場を失った己の手を見つめてアルジュナに視線を戻すと、からだが温もったのが気持ちよかったのか、満足そうにブランケットに顔を埋めていた。一連の仕草は頑是無い子供のようで、その顔もまた子供の寝顔のように安らいだものだった。
「ゆっくり休むがいい」
 知らず微笑みながら、その眠りを妨げないようカルナはそっとアルジュナの側を離れた。

 カルナの動く気配に意識が浮上したのか、アルジュナは暫くすると目を醒したようだ。
「カルナ、おはようございます。すっかり寝入ってしまって。シャワーをお借りしても……え?」
「おはよう、アルジュナ。少々待ってもらえるか。すぐ済ませる」
 カルナは洗面所で髪を切っていた。昨日、しきりにアルジュナがカルナの頭を見てはなにか言いさして止めるという動作を繰り返していたのを今朝になって思い出したのだ。
「昨日は誰にもなにも言われなかったが、流石にオレでもこれがまずいのは分かる。しっかり鏡を見るまで気付かなかった。失礼した」
「実は昨日言おうと何度も思ったのですが、なんとなく言い出せず……」
 まさか気付いていなかったのか、とはっきり顔に書いてある。気まずそうに目を逸らしたアルジュナを鏡越しに眺めながら、またひと太刀、と鋏の刃を髪のひと房にあてがう。その角度を見てぎょっとした顔をしたアルジュナが床に乱雑に落ちた毛束と先ほど切り落として短くなった毛先を素早く見比べ、鋏を持った方の手首をがっしりと掴んできた。焦っているのか込められた力は結構強い。
「あの、ヘアサロンに行った方が」
「オレはそういった店にほとんど行ったことがない。いつも自分で切っている。セルフカットというやつだ」
 カルナのその発言に絶句したアルジュナは、信じ難いと言いたげに俯き一、二度首を降った。そして顔を上げた時には覚悟を決めた面持ちで断固として言い放った。
「私が切りましょうか。いえ、私が切ります。絶対にその方がいい」
 先ほどの鋏の角度とぞんざいに掴んだ毛束を切る長さの目測、既に切られた毛先の断面を見ただけでセルフカットについてアルジュナから一切の信用を失っていることを感じ取り、カルナはしずかに目を閉じた。
「そうか…… そうか……。オレは散髪が下手か。自覚はなかったが」
「下手とか上手いとかそういう次元ではなく、これは駄目です。貸してください」
 ばっさりとアルジュナに言い切られたカルナがおとなしく鋏を手渡す。受け取ったアルジュナは、それが大振りのキッチン鋏であることにぎゅっと眉根を寄せた後、数回素振りのように鋏の刃をしゃきしゃきとゆっくり開閉してからカルナに向き直った。一歩下がってカルナとの目線の高さを確認して
「身長はほぼ同じでしょう。屈んでもらうか……いや、椅子に座ってください。その方がやりやすい」
「わかった。しかし、そうするとここでは狭いな」
 洗面所は椅子を置いて男ふたりが詰めるには狭いうえ、後の面倒が減るという理由で家の前庭に椅子を一脚持ち出して散髪は行われた。同じ面倒を減らすならと上半身の服を脱ぎ、続いて下も脱ぎ出して下着一枚で椅子に座ったカルナを見てなにか言いさしたアルジュナは「いえ、あなたがそれでいいなら良いです」と急速にカルナの人間性を把握してきている様子で半ば胡乱な態度でちいさく言った。
 半身に陽光を受けながら、前に後ろに横にとくるくると移動して細かく毛先を調整しつつ集中して散髪に勤しんでいるいまのアルジュナに翳りは見えない。
 前髪を切る段で、真正面に屈み込んだアルジュナと近々と目があった。彼の瞳は陽射しを透かして尚黒々として、午前の明るい光を受けてやっと虹彩は僅かに色を薄めるだけで、ここまで明るくてやっと瞳孔との境がはっきり見える。吸い込まれそうなほど深々と黒かった。
 一瞬アルジュナの方もカルナの瞳をぐっと覗き込んだがすぐに目線を逸らして、ぽつりと溢すように言った。
「瞳、綺麗な青ですね。あなたの描く絵の空と同じ色だ」
「そうだろうか。オレはおまえの瞳こそうつくしいと思ったが。夜の海を思い出す色だ」
 或いは、真夜中に覗き込む水。透明な黒。そう付け加えると称賛になれた態度でさらりと受け流された。
「褒め返されると面映いな。前髪を切ります。目を閉じていてください」
 うつくしい色を覗き込めない事を惜しく思いながら目を閉じる。櫛やブラシなど所持していないのでアルジュナの手櫛で毛流れを整えられる。あの作品を描く手で丁寧に触れられているのだと思うと、やわらかい手つきで髪を梳かれているだけに心地良さとともに奇妙な居心地の悪さを感じた。
 アルジュナが集中している気配は何故か身に馴染む。草の先を揺らす程度の微かな風の音と鋏の開閉する音、互いのゆっくりとした息遣いだけが聞こえるしずかな時間。互いに無言でいても気詰まりでない空気。
 リラックスした心地でそんな時間を束の間楽しんでいるあいだに散髪は終わったようだった。アルジュナは手際が良い。
「大体終わりました。最初にあなたが切り落とした分の長さにあわせて揃えてみましたが、いかがでしょう」
「済んだか」
「私は散髪のプロではありませんし、道具がこれだけなので。しかし、あなたが自分で切るより、はるかにまともな仕上がりだろうと自負しましょう」
「感謝する」
 カルナに手で触れてみるよう促す。アルジュナが扱えばただのキッチン鋏もなにか特別な道具のように彼の手のなかに収まっている。会心の出来なのだろう。思いがけず表情豊かに満足そうに笑む様に心から謝意を示した。
 整えられてだいぶ短くなった毛先を、手櫛でさらりと感触を確かめただけで、そのまま洗面所から逆の方向に向かったカルナをアルジュナが引き止める。
「一応鏡で確認してください。もし気になるところがあれば可能な限りはなんとかしますから」
「ほかならぬアルジュナ、おまえが切ったのだから良い出来になっているのは当然だろう。自分でも言ったではないか。まともな仕上がりだ、と」
 カルナが不思議に思って問い返すとアルジュナの方も不思議そうに質問を返してきた。
「随分信頼していただけて光栄ですが、何故?」
「なにかを造形して、おまえが粗のある仕事をするとはオレは思わんよ」
 それがたとえオレの髪ごときの事でもな、と付け加えてすこし笑ってみせると容姿を称賛されたときとは打って変わってアルジュナは虚を突かれたような顔で一瞬黙った。
 カルナとしては当然の答えだったがアルジュナは驚いたようだ。もし仮に失敗したとしてもなにかしらのかたちでリカバリーしただろう。アルジュナが自分の行いに責任の持てる誠実な人間である事をカルナはもう知っていたから。
「素晴らしい賛辞をどうも。ですが、私にも不出来な面はあるのですよ」
 賞賛を受けて、途端に他人行儀な慇懃さで男は笑顔を浮かべてみせた。先ほどまでの溌剌としてカルナの目を惹きつけた表情の鮮やかさを引っ込めてしまったすがたは、その変遷が特にカルナの目には顕著に映るだけに、どうにもささくれのように心に引っかかるものだった。

 散髪と簡単な片付けが済んだ後、軽食をとって車に積みっぱなしだった絵を降ろした。アルジュナも手伝う。
「ここがアトリエだ。とりあえず、そこの隅にでもまとめて立てかけておいてくれ」
 前庭を横切ってアルジュナを通した場所はサンルームだ。サンルームにしてはかなり広めに設計してあり、部屋の隅には薪ストーブがある。いまは使う時期ではないから、埃除けに簡単に布が掛けてあった。床は白っぽいタイル敷きで、日除けのシェードを張っていない状態だと明るい午前の光をいっぱいに室内に湛えて眩しいほどだ。
 そしてがらんとして簡素な空間だった。室内テラスといった趣で設計されたのだろうが、使い込まれたどっしりとした木製のイーゼルと低めの丸椅子、棚とちいさな机があるばかりで、諸々の画材類のほかは部屋の庭側の隅にちいさな植物の鉢がいくつかあるだけ。カルナが特にその他の家具や調度品を置いていないからとにかく物がない。
「すこし見ても構いませんか?」
「特に見るものもないと思うが。好きにしてくれ」
 
 カルナから了承を得て、礼を言ったアルジュナは家側の壁に無造作に掛けられたキャンバスのいくつかをゆっくりと眺める。描きかけの絵の端に淡く陽射しが掛かっているが、絵具の褪色などまったく気にしたようでないのがカルナらしかった。他者の描きかけの絵を眺める機会は意外とすくない。アルジュナは興味深いようで、じっくりと、それこそ昨日展示の絵を鑑賞していた時と同じように時間をかけて未完成の絵たちの表面を眺めていた。
 最後にゆっくりと瞼を伏せてキャンバスから目を離したアルジュナは、そのまま部屋を一周して最後にぐるりとアトリエ全体を見渡した。イーゼルの足元、床にほとんど投げ出すように絵具が乱雑に詰まった大きな工具箱が置かれていて、床のタイルは陽射しをやわらかに反射している。サンルームのガラスは透明に磨かれていて、よく茂った緑の豊かな庭は野趣溢れるが目にやさしい。見渡してもここから見える範囲には隣家はないようだ。遠くでなにかの鳥の囀りが聞こえる。ゆっくりと流れる雲に時々陽射しが淡く翳る。背後でイーゼルに掛けた、まだほとんど画面の埋まっていない絵をそっと持ち上げて見聞するカルナ。それらを眺めてぼんやりと佇むアルジュナを含め、この場に在るすべてが穏やかだった。
 
「眩しいけれど、落ち着きますね。良いアトリエだ。あなたらしい」
 素気ないほどに装飾のない、けれど親しみを感じられる場所だとアルジュナは評した。
「そう言ってもらえると嬉しいものだな」
「ここであの絵たちが描かれたのだと思うと。なんだか嬉しいような気がします。ここはしずかで、気に入りました」
 そう、やわらかに目元を緩めて言ったアルジュナにカルナの感情が動いた。微かに驚きや安心に似ていて、たぶん、喜びに近いなにか。
「そうか。なら、好きなだけここに居ればいい」
 勿論、そうしたいなら。と言い添えて。情動に釣られてか、思いがけない言葉が己の口から滑り出た事にカルナ自身内心驚きつつも、言い終えるまでに心は定まっていた。アルジュナは吃驚したようにカルナを見て二、三度瞬きした。理性に根差した落ち着きと生来の美貌で深閑とうつくしい男は、きょとんと目を見開くと途端に見る者に愛らしい印象を与える。表情の、感情の変化が、見ていてほんとうに飽きない。
 カルナの勧誘が真摯なものである事が伝わったのだろう。数秒ゆっくりと考え込んだアルジュナは、おなじだけゆっくりと息を吐き出してから言った。
「では、数日居ても良いでしょうか? お邪魔でないなら、お世話になります」
「服は貸そう。部屋着程度ならそうそうサイズがあわない事もあるまい」
 有難うございます、お世話になります。ともう一度丁寧に礼を言ったアルジュナは何故かほっとした顔をしていた。帰りたくないのだろうか。何故? だが、このタイミングでするには踏み込み過ぎた質問のように思われ、カルナはその勘を信じた。一言多い言葉を選べと叱責され、場の空気をぶち壊してきた実績だけはおそらく誰よりも多い。アルジュナは無遠慮な人間を嫌うだろう。まだ彼と話したかった。浅慮でその機会を失いたくない。
「ところで」
 ふと思い至って質問する。
「数日予定がないと言ってはいたが、多忙なおまえの事だ。まったく仕事ができない状況は後から大変ではないか?」
 アルジュナとゆっくり話す機会はじゅうぶんに持ちたいが、アルジュナ自身の都合を歪める事は本意ではなかった。
「タブレット端末を持ってきていますのでご心配なく。あれだけでも簡単な仕事は出来ますので」
「場を選ばず描けるのはいいな。デジタルか。いつか挑戦してみたいものだ」
「マテリアルには拘らないと? あなたはアナログ的というか、手でテクスチャを構成する事に拘りがあるのだと思っていました。だからアクリル絵具や油彩を扱われるのだと」
 アルジュナに問われてカルナは考え込んだ。考えた事のない事柄だったからだ。
「言われてみれば拘りは特にないな。というより出会いの問題だ。オレが絵をはじめようと思い立った時、一番最初に勧めてもらったのがアクリル絵具で描く事だった。次が油彩だ。続けてみればアクリルも油彩もオレと相性がいい。描きたいものを突き詰めるのに相性の良い画材は必須だと思う。無論、時には挑戦も必要だが」
 カルナがゆっくりと己の内側から言葉を拾いながら答えるとアルジュナは眩しいものでも見るように目を細めていた。その感情は窺い知れない。喜んでいるようにも、苦しんでいるようにも見えた。何か変な事を言っただろうか。カルナが問う前にアルジュナは気分を変えるようにすこし明るい口調で話題を変えた。
「意外と彫刻や、ひょっとすると陶芸なんかも相性が良いかもしれませんよ」
「ふむ。試した事はないがどうだろう。アルジュナ、おまえはデジタル以外は描かないのか」
「私は美術大学出身でして、実は油彩もやっていた事があるのです。いまはまったく描きませんが」
「それは見てみたいものだ。いまはもう描かないのか?」
 カルナがアルジュナの油彩に興味を持って声を弾ませると、最前取り繕った明るさを溶けるように消したアルジュナは
「服が、汚れるのが嫌で」
 暗い面持ちも隠さずに呟くようにそう言った。
 己の扱う画材をそのように言われれば気分を害す画家も多いだろう。だが、いまアルジュナはネガティブな感情であろうと繕わず本心でカルナに溢した。その事実はカルナにとっては丁寧な態度で接される事よりはるかに重大で——大いに喜びを伴って響いた。
「なるほど……なるほど……。そういった見方もあるな。やはりおまえと話すのは楽しい」
「! すみません。失言でした」
 はっとしたように謝罪するアルジュナは混乱しているようだ。おそらく普段であれば、こんな揺れたすがたを他人に晒さないのだ。そして己の失礼だっただろう態度に何故か嬉しそうにしているカルナにも困惑している。
「それが本心というだけで、そう思う事自体が悪いわけではあるまい。アルジュナ、オレはなにを選ぶかは重要だが、なにで描くかはさして重要ではないと考える。好きに描けばいいし、おまえが好きに描いた作品をオレは見たいと思う」
「カルナ」
 まるでそんな事ははじめて言われたのだというように、カルナの名を呟いたきり黙ってしまったアルジュナは寄る辺のない子供のような顔をしていた。ほんとうに多彩な表情を持つ。きっとアルジュナ本人はそうは思わないだろうが、カルナからみればアルジュナは色鮮やかな人間だった。彼の持つ感情の鮮烈な様に惹かれてやまない。それは喜びだけではなく、悲しみや憂い、怒りもまたカルナにとっては等しく、アルジュナが発する感情であるだけで魅力的に映った。感情の揺らぎに繊細な感性を呼応させて、理知でもって複雑な心の動きをなんとか統制しようとしている強靭な理性にも敬意を持った。
 少しのあいだ、アルジュナの沈黙に寄り添った後、そっとアトリエを出るよう促す。
「さて、気付けば時間が経っているな。朝とも昼ともつかない時間に軽く食べたきりだ。腹が減った」
「ゆっくり拝見させていただきました。滞在のお礼にもなりませんが、私がなにか作りましょう。大層なものは作れませんが。キッチン、勝手に使って構いませんか?」
「ここにいるあいだ、なにかを使うのに特にオレの許可は必要ない。火事にだけ注意してくれ。ここは立地的に消防が来るのに時間が掛かる。あとはおまえが特に必要だと思う時だけ訊いてくれればいい」
 カルナの一言に普段の調子を取り戻そうとアルジュナが少々ぎこちなく微笑む。
「カルナ」
 アトリエを出る際、一度振り返ったアルジュナがもう一度カルナを呼んだ。
 目線で答えると
「有難うございます」
 たった一言囁くように言ったアルジュナの礼がなにに対するものなのかは訊かなかった。なんとなく、いまのアルジュナの気分がわかるような気がしたから。

 アルジュナがアトリエから出て行った後、カルナはしずかにそっと息を吐いた。
 何故だか、最初に話した時から、アルジュナとはいつか決定的な別れがあって二度と話せなくなる、そんな予感があった。仮初のひと時とは思わないが、この時間はきっと長くは続かないだろう。
 だから、アルジュナとの会話を、共に過ごす時間を惜しんだ。というのが一番近いのだ。おそらく。
 いつかなにかのきっかけで、決定的な亀裂が互いのあいだに生じる——それも破滅的な取り返しのつかないような類のものが——自宅に引き入れておきながら奇妙だとは思う。だが、確信めいた直感があった。アルジュナは礼儀ただしく、冷静で柔和なだけの人間ではない。努めて清廉で潔癖である事を己に厳しく課しているだけだ。その儚く一種可憐でさえある様を打ち壊してみたくなった時。アルジュナの怒りをカルナ自身が感じたくなったその時が、それがふたりの関係の終焉だろう。
 窓に映った、常になく丁寧に整えられた己の髪を眺めて毛先に触れてみる。普段まばらに絵具がこびりつこうが野放図に伸びようが頓着せずに過ごしてきたが、こうして誰かに手入れされたのは随分と久しぶりの事だった。
 アルジュナがそうしたように、こめかみから毛先までやわらかく手櫛を通してみる。痛んだ毛先の枝毛も丁寧に切り払われた地の白銀がするりと指に馴染んだ。

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